エスイーノPCリレキ

■はじめてのPC(NEC PC-6601SR)



今は亡きPC-6601SR
私が生まれて初めて触れたパソコンは、NEC製のPC-6601SRであった。
私が10歳の頃だったか、親父がなぜか買ってきたものだ。当時は知らなかったが、価格は15万5千円。以外と高めだ。
当時「欽どこ」を見ているときに武田鉄也がCMをしていた。「六本木パソコン Mr.PC」という謎のキャッチコピーが 怪しく光るが、どの辺が六本木だったのか今となっては知るよしもない。
しかし、このマシン今から考えると、かなり画期的なアイディアが採用されていたように思う。
ワイヤレスキーボードの採用、パソコンディスプレイにTVチューナーが内臓(ただのテレビといううわさも)、当時としては珍しかった3.5インチフロッピーディスクドライブ搭載(但し、143KB)、極めつけは、N66BASIC。なんとTALKと言う命令があり、TALK "OHAYOU"などと命令すると「オハヨウ」と喋る!変なイントネーションで!しかも、PLAYという音楽を奏でる命令と組み合わせる事によって「♪オハヨウ〜」と歌う!変なイントネーションで!画期的すぎて売れていないのかどうかは解らないが、この事を話ても知っていた人は今のところいない・・・
そんなパソコンだったが、はじめの頃はおまけでついてきた「ヴォルガード2」というシューティングゲームばかりやっていたが、FDを差し込んだまま黙々とゲームしたため、熱でFDが壊れてしまう。ゲームがロードできなくなったため、今度は、付録で付いてきた「ユーティリティディスク」を試しにロードしてみる。そこで、「Midnight Magic」というピンボールゲームを発見!サルのように遊びはじめるが、結末は皆さんの予想どおりとなる。とうとう何もする事が無くなったが、パソコンに同梱されていた「N66BASIC」のマニュアルを発見。訳も分からず、書いてある事をパソコンに打ってみると、何と画面には日の丸が!試しに、四角を書いている色指定を「Green」に変更してみる。すると、日の丸バングラディシュの国旗に!これはすごいと2、3年のめり込む。このあたりから人生がくるい始める。

■おかしな仲間を連れてきたPC(Panasonic FS-A1WSX )



今の私を作ったと言っても過言ではないMSX2+
PC-6601SRを触らなくなってから、8年の月日が流れた。
学生となり、エッセイを書く事が多くなった私は当時、方眼紙に黙々と活字を埋める生活をしていたが、字が汚い上、紙媒体を管理出来るほどの丁寧さすらなかった当時の私は、ワープロがほしかった。 「あ〜ワープロがほしいな」とポロリとこぼした私の言葉に敏感に反応した男がいる。友人Kiyoである。 Kiyoは、しばらくしてある黒い物体を持ち、我が家にやってきてこうつぶやいた。
「おまえ、金がなかろうが。これ使えるかどうかわからんが、文章書く位なら出来よう。使えや。」
彼が手にしていた黒い物体こそが、かのMicrosoftの提唱したホビーPC統一規格(?)MSXである。 私は喜び、さっそく接続して起動してみた。メニューからワープロらしきものを選び、打ち込んでみる。 字が汚くない!消しゴム使わなくても字が消える!管理も楽だ!場所も取らない!コリャいいもんだ!なぜこんないいものを今まで知らずに生きてきたのか!そう自分を戒め、知らない事の愚かさを恥じ、今まで自分が書いてきた馬鹿なエッセイを打ち直しにかかる。
しかし、一度自分が書いたものを再度打ち直す事にはなはだ抵抗が生まれ、要するに面倒くさくなってきた。そのうち、起動すらしなくなり、MSXにはフジヤマに降り積もる新雪のような埃が積もり始めた。
そのPCに再度息を吹き返させた人物がいる。専門学校の友人である和実だ。ある日、学校帰り特に何を示し合わせたわけでもないが、ふらりと我が家に立ち寄った。彼は我が家に足を踏み入れるや刹那、目を鋭く輝かせる!あの様をどう表現すれば言いのか。語彙の乏しい私では如何せん比喩しがたい。あえて喩えるなら「獲物を狙う黒豹」・・・いや、彼はそんなに黒くない。たぶん。ならばどう言えば良い?白・・・白・・・「砂漠で牧草を発見したヤギ」。いや、そんなにほのぼのした感じではなかった・・まぁいい。この際「友人の家であるはずの無いMSXを発見した和実のような顔」としておこう。そのままではないか。どこまで話が進んでいたかな・・・そうそう。そういった目をした和実の視線の先を追ってみると、その目はMSXに釘付けになっている。そして、埃をかぶっている事を気に留めることなく彼はこう言った。
「これMSXやろ?これでなにしてんの?」
何をしてるかと聞かれても、まさかこれで煮しめを炊いたり、風呂を沸かしたりしているわけでもないので、「今のところワープロとして使っている」旨を彼に伝えた。すると彼はおもむろにMSXを起動し、なにやらごそごそ黒い画面に字を打ち出した。そこで私の脳裏に記憶がよみがえる!N66BASICではないのか?IF、FOR、NEXT、LINE、CIRCLE・・・明らかに見覚えがある!そうこう思索している間に彼は、謎のプログラムを作成していた。実行すると、画面上に数本緑色の棒が表示され、画面左端には点が表示された。しかし、その点はあっという間に画面の下のほうへ落下し、画面には「OK」の文字が寂しげに表示されていた。彼は言う。
「SPACEキーを押せば点が上に上がるぞ。放せば下がる。うまい事点をコントロールして棒を避けて画面の右端までもっていくんじゃ。」
なるほど。これは棒除けゲームだ。すべてを理解した私は、その場に飛び上がり、手から炎を出しコマをまわしながらゲームに熱中した。こんなに簡単にゲームが作れるなんて・・・私感銘を受け、和実の残していったソースを眺めながら、改造したりしてプログラムと言う泥沼にはまっていく事になる・・・

初めて自分で選んで買ったPC(EPSON PC-486SE)



パソコンのいろいろな可能性を見せてくれたPC-486SE
私はコンピュータの学校に通っていた。だからなんだと言われても事実なのだからしょうがない。
そのコンピュータの学校に通っている学生が、パソコンを持っていないと言うのはどうだろうか。例えれば、バットを持っていない野球選手のようなものではないのか。いったい何で打てと言うのか!馬鹿にするな!そういった折り、母親から電話がかかってきた。内容はというと、小学校より学校の貯金でためてきたお金があるので、渡しておく。無駄遣いするなとの事。なんとも絶妙のタイミング。さっそくこのお金でパソコンを買えるかどうか見に行こう。これは無駄遣いではない。バットを買うのだ。野球選手が。これを無駄遣いと言うならプロ野球選手は全員無駄遣いばかりしている事になろう。そう屁理屈を呟きながら、さっそくその頃和実がバイトを始めたパソコンショップに足を運び、大体の金額を見に行った。
別にこれと言って、選択基準や希望があったわけではない。ただ、「アンチNo.1気質」だったため「NECはいやだなぁ。」と思っていた程度だった。だから、店に入ってすぐたまたま安売りになっていたPCに目が行く。それが、EPSON PC-486SEだった。ただそれだけ。価格は確か9万9千円だった。それに、ディスプレイをつけた。「ディスプレイが無いとパソコンは使えない。」それくらいは知っていたためだ。別にこだわりも無かった為「安いので良いですよ」と言っていたのだが、店員の強い勧めに飯山電機のMF-8615Aを購入。これはかなり有益だった。当時のOSと言えばDOSが主流で、Windowsなんて物はまだごく一部の人間しか触っていなかった。ディスプレイは一定の周波数だけ処理できればそれで良かった。そんな時代。しかし、店員の彼は
「無駄にならないからこれにしておけ」
と言って聞かない。普段手にする事の無い大金を手にして、アラブの富豪のような気になっていた私は、誘いに乗ってそのディスプレイを購入。彼の勧めは正しかった。その証拠にディスプレイだけは未だに使っている。
しかし購入したはいいいが、紙と鉛筆として使用する以外これと言って使用目的はない。手に余る買い物。それがパソコンだった。とりあえず使い方すらわからない状況であったので、和実の家に持ち込んでみる。当時MSX以外のパソコンを持っていなかった彼は、欲望を溜め込んだ雄犬が雌犬に迫るような勢いで、どんどん我がマシンに環境を構築していく。しめしめ。環境構築の方法や、ファイルシステムの基本、DOSの使い方など、彼の手順をみて覚えられる。そうとは知らない彼は、怪しいゲームなんかもどこからともなく手に入れ、そして我がマシンに入れていった。私は、海老で鯛を釣った。いや、パソコンは当時海老以上に高価だったから、鯛で鯛を釣った。共食いではないか。このパソコン今考えると、今までで一番長い間使いつづけ、いろいろなことを習得し、いろいろなOSを入れて楽しんだマシンだった。Windows95まで入れて、インターネットまでしていた始末。IEの起動には3分くらいかかっていたが。今では考えられまい。ソリテリアがまともに動作しないWindowsマシンなど。「今の人たちは恵まれている。」そう声を大にして言いたい。間違いなくここに記載されているPCの中で愛着度は、No1だろう。

初のホストPC(EPSON PC-486FR)



ホスト運営の為だけに購入されたPC
鯛が釣れている間、私はというと、MSXで謎のゲーム「つやつや」を作成中であり、それも完成に近づいていた。する事もなくなりそうだし、ちょうど和実が色んなソフトを入れてたりしたので、我が家に持ち帰りゲームにいそしむ。しかし、それも長くは続かなかった。あるアイテムを手に入れたからだ。そのアイテムの名は、SUNTAC MF144AF何のことは無い、14400bpsのモデムだ。今の時代のようにパソコンを買って来たら無条件でモデムが付いてくるような時代ではなかったし、当然インターネットなんて物も一般には普及していなかった。じゃあ、なぜ買ったのか。インターネットは無かったが、草の根ネットという物はあった。どういうものかというと、一般の人が開設しているホストコンピュータに電話をかけ、そこに保存されているメッセージデータで他のユーザーとコミュニケーションをとったり、画像やソフトをダウンロードできたりしたのだ。今のインターネットの前進と考えていただいてよい。構造はまったく違うが利用目的なんかは同じだ。当然だが今のネットのようにプロバイダーなんてものは存在しない。だから、ホストが北海道にあれば、北海道まで電話をかけなければならない。電話代が異常なほどかさんだ。平均でも、月に3万近くは払っていたように思う。これでは生活がやっていけない。ではどうするか。自分でホストを開いてしまえ!これが明確な回答だった。とりあえず、自分のパソコンをホストにするわけにはいかないので、知り合いにパソコンを安く譲ってもらった。EPSON PC-486FRだ。それと、モデム。その頃珍しかった33600bpsのモデムを1万で買い、ソフトはフリーの物で済ませた。46時中電話回線を取られてはたまらないので、様子見に夜10時から朝7時までの時限ネットすることにした。ゆうに2〜3ケ月分の電話代ほどの大枚をつぎ込み、いまや伝説になっている「岡山セントラルBBS」を開設した。
とんでもなく大仰なネーミングだが、その頃私は、岡山駅のすぐ側に住んでいたので、あながち間違いではない。その頃岡山駅に最も近いホストであっただろう。岡山駅を岡山の中心と見るかどうかは物議をかもし出すところであろうが・・・
しかし、業績はあまり思わしくなかった。ユーザーがなかなか集まらないのだ。宣伝活動もそこそこやっていたが、やはり、自分のホストを持つと、他のネットの書き込みまで手がまわらない。書き込めないので名が売れない。名が売れないので宣伝できない。宣伝できないのでソフトが集まらない。お金丸損。魔のフローチャートではないか。なかなか運営とは難しいものだ。
そこで思いついた。一人でやるからいけないのだ。自分とこの書き込みをスタッフで分担し、他のネットの書き込みへの宣伝活動に手がまわせるだけの余裕を作ろう。これは名案だ!丁度その頃和実も同じように電話代が嵩む事を危惧していたかどうかわからないが、ホストを開いていた。それが「USASAN-NET」だ。しかも、和実のネットもあまり人は集まっていなかった。そこで、岡山セントラルBBS改め「ぱすてる☆きっす」を、「USASAN-NET」と統合することにした。それからというもの人が集まり始めおかしな面々(その頃は顔も見たことが無い人たちだったが、今は仲のよくなった人たちもいる)が集い始め、イベントなんかもこなしながら、USASAN−NETは規模を拡大していった。結局4,5年は続いたであろう。USANSAN-NETの運営としては成功だったのではないかと自負している。

■初めてのノートPC(NEC PC-9801NA/C)



NET運用の補助、仕事中の暇つぶしにと大活躍だったPC
ノートがほしい。そう思った。
それはなぜか。ホスト運用の仕事中にできる大量な時間がもったいないから。その時間でプログラム言語を勉強したいから。 たまにはゲームをしてみたり。ホストの集計をしてみたり。ネットの管理をしてみたり。OFF会の時にデスクトップを持っていくのは辛かったり。ディスプレイを抱えてマリンライナーに乗るのが恥ずかしかったり。普通の人ではどうでもいいことと思われがちなさまざまな理由を数々携え、その数々の欲求を私はノートパソコンにぶつけようとしていた。しかし、極貧の生活を余儀なくされていた私は、ノートを買う事をあきらめ、どうしようもなく悶々とした日々を送りながら、煩悩を払拭すべく生業に没頭していた。しかし、友人Oの「パソコンならうちの会社で安く買えるよ」この一言ですべてが崩壊する。
これはチャンス!買わねば!こうして、生涯5代目のパソコン購入を決意した。
このPC-9801NA/Cはなんとも、中途半端なPCであったと言わざるを得ない。液晶画面は、DSTN液晶が主流だったこの時代には珍しく、TFT液晶を標準装備していたものの、CPUはNECの謎のチップを搭載し「V30モード」という擬似的にV30プロセッサに切り替えるディップスイッチもついていた。何に使うのだろう。HDD200MB、外部メモリ4MB、音源はビープのみ(!)、せめてFM音源くらいは搭載しておいてほしかった。まあ、価格14万円ではこのくらいだろうか。そのころ、和実もノートパソコンを購入していたが、彼のEPSON機は画面こそDSTNで見づらかったもののゲームをするには申し分ない環境であった。裏山。
とはいえ、私が一番C言語での開発を行ったマシン。プログラムを開発するには申し分ないパソコンだった。画面はきれいだったし。それなりに愛着もあるのだ。それなりに。

■PCではないが・・・(HITACHI PERSONA HPW-200JC)



会社との通信手段にのみ使用されたハンドベルドPC
WindowsCE。これがこのマシンに搭載されているOS。あのWindowsの流れを継承し、ただでさえ貧弱なハンドベルドPCのCPUとメモリを大幅に食い荒らすためにMicrosoftが開発したOS。メモ帳とたいして変わらないPocketWORDや、ほとんどの関数と機能を削減したPocketExcelを言い訳のように搭載している。OSのおかげで、日立の誇るCPU「SH3」を搭載しているにも関わらず、私のタイプスピードにすら追いつけない。ソリティリアをクリアしようものなら、カードがすべて飛び去るまで3分近くかかる始末。そう。一言で言うと使えない。そこまで言うのになぜ買ったか。Outlookは別だから。これは、PCとの連動により、大きな力を発揮してくれる。携帯電話を接続することでのインターネットを可能にしている。ただし、このOutlookを私は5万円近く出して購入したようなものだ。
ではなぜこのようなものを購入したのか。会社の上層部である決定がなされていたから。高松出向。そう、二度と足を踏み入れることは無かろうと後にした、あの某銀行電算センターに再び舞い戻る高松出向。社員食堂の150円のすうどんを毎日のように食べ、栄養失調になったあの場所へと強制送還となる高松出向。どうしようもなく金の無かったあの時代をいやでも思い出させる高松出向。あの忌まわしき、吐唾すべき・・・そこまでいわんでもいいか。しかし、その悪しき思い出のたくさん詰まったパンドラの箱をまた開けようとしているのは事実だ。だが、上層部からの直接命令。平社員以下の私には断る理由も無く、甘んじて受けることになった。そこで問題となるのは、現在私が保有しているメアドの管理。個人用と会社用とある。2つも。この仕事以前にやっていた仕事もあり、問い合わせなどがくる可能性もあるし、友人からメールがくる可能性も無いとも言い切れない。これは困った。高松との往復になるので、若かりしころのように、デスクトップを抱えてマリンライナーに乗るわけにもいかない。こうなれば、ザウルスを買ってしまえ!そう思い、電気屋に行ってみた。ところが、ザウルスは高い。モノクロにも関わらず結構な値段である。しかも、当時のザウルスは文字入力がペンであり、店頭でいじってみた所うまく認識しない。店員に聞いてみると、
「おかしいですねぇ。いつもはもっと認識するんですが・・・」
と言う回答が帰ってきた。「わんら!わしの字が汚いとでもぬかすか!」と脅してみたところで認識がよくなる訳でもないので、そのまま引き下がってやった。とにかく、ザウルスを一旦候補から外して、他の機器を見て回る事にした。キーボードがついているものも多少あるようだ。その中で目を引いたのがPERSONAである。ノートパソコンと同じ大きさのキーボードを搭載し、大きさもなかなか良い感じ。重さも気にならない。メールをするだけならまあ使えるだろう。ノートよりは圧倒的に安い。これはもう買わなければなるまい。いや、買うべきだ。そう思う間もなく店員は私の渡した現金を手にキャッシャーのほうに駆け出していた。
私は、満を持して購入したモバイルツールを手に高松へと旅立ったわけだが、結果としてほとんど使用していない。
いや、使用できなかったというべきか。ホテルに帰ったころには既に翌日となっており、その翌営業日は、朝五時起きで出社というスケジュールでは、モバイルなど使う余裕など無い。その時間で睡眠時間を確保する方がよほど賢明な判断であろう。PERSONAは、高松・岡山間の移動時間に、メール・ソリテリアをするくらいにしか使用できなかった。しかも、高松の仕事も最終日になったときに、メールをしようとフタを開けたところ、液晶画面が大破していた。なぜこのような惨状になったのかは不明だが、まるで「高松出張時の連絡用」と言う自分の役割を把握し、その役割を終えた時、自ら人生の幕を下ろしたかのようであった。PERSONA用に購入した32MBのコンパクトフラッシュは、今は、デジカメ用として大いに役に立っている。

■初めてのPC/AT互換機(Fujitsu FMV-BIBLO)



一番使用したであろうノートPC
バブリシャス・・・使途の定まらないお金を一時的に持っている元貧乏人を指す俗称。

私がこのマシンを購入した時期というのは、正にこの状態であった。PERSONAの章で触れたが、鬼のような残業を強要され残業手当はバンバン入ってくるにも関わらず、散財する時間がまったく取れないことでお金がどんどんと貯まっていた。今なぜこのお金が無いのかを悔やむ事も多々あるが、その原因としてあげられるものの一つがこの買い物である。金額として17万円。同じ時期にした引越しに比べれば半額である。それと比べても困るが。このPCで初めてインターネットがまともに使える環境となったわけだが、インターネット自体は、この3年くらい前から月1万円近く払って契約はしていた。しかし、なにせPCが486SEであり、上で触れたような状態だったので、どうしても疎遠にならざるを得ないかった。このPCを購入し、インターネットが思う存分できるそう思った。買って1ヶ月ほどは。
しかし、一通りいろいろなページを見てみると、飽きてくる。これはインターネットの宿命だろう。今ほど様々なコンテンツがあった時代でもなかったし、使用目的としても、個人のホームページと企業の会社情報を見るくらいしか無かった時代であった。
一日一回お気に入りのホームページを見る以外ネットをしなくなった。この頃は家内と付き合い始めた頃だったので、色々家内にメールをするようになる。
メールでインターネットに接続するときに他のページを見たりしていると、Yahooでインターネット上で対戦ゲームが出来る事に気づく。やってみると、意外と面白い。しかし、中にいる人たちはどうも好きになれない。初めての人間にYahooのサポートにも載っていない専門用語をバリバリ使って説明をし、それを守れないからとルームから強制退去させたりとやりたい放題だ。わたしも何度もこの苦渋をなめた。ちょっとずつ人に聞いたりして、最低限のルールが分かったら結構楽しめるようになる。
しかし、こういう輩がネットゲームの一般ウケを阻止していると思わざるを得ない。
こういう物は、はじめから楽しめなければ意味はないのだ。
たしかに、独自のルールを作って、楽しむと言う事に異論を唱える気はない。そりゃ、YahooGamesだって完璧ではないし、ゲームの特性上ルールを変えた方が楽しめる場合も多いだろう。だからと言って、
一見さんお断り的な行為をする権利は、使用するユーザーにはない。そういう場を構築しているのは運営側にとっては不利益になるからだ。
まぁ、今となってはまったく使用していないのでどうでもいいが。
この伝説の機械も今は友人に無償で貸し出している。

■人生のターニングポイントに立ち会ったPC(Fujitsu FMV-DeskPower C/405)



ママが購入したデスクトップPC
上の章で若干触れたが、私が家内とメールをやり取りしていた際、家内が使っていたパソコンがこのFujitsu FMV-DeskPower C/405であった。奇しくも同じFujitsu同士。それが基ではないが、結婚することになった。
私はこの結婚を機に実家の山口の土田舎に帰り、家内と共にあまりの娯楽の少なさにあきれ返りながらこのパソコンでインターネットをすることが楽しみとなっていった。この頃の夫婦の唯一の楽しみは、私の中学校の頃の先輩がマスターを勤めるラウンジに夜な夜な出かけることくらいであった。しかし、所詮田舎というのは狭いもので、うちら夫婦が夜な夜なのみに出ると、少なからず知り合いに出会う。その知り合いのうちの一部がうちの両親に告げ口をするのだ。「あそこの若夫婦は夜な夜な酒を飲みに出かける」と。 声を大にして言いたい。
「別に俺らが酒を飲みに出かけようが出かけまいがあんたには何の関係もないし、他の娯楽も無いようなこの田舎で他になんの楽しみがあるのか。俺一人で飲みに出たら家では家内が一人で寂しい思いをするだけ。一緒に行って何が悪い。」
と。
そんな田舎に嫌気が刺すと同時に、自分には家業を継ぐことは間違いなく無理だということに気づき、私はまたこっち(コンピュータを生業とする)の世界に帰ってきた。
息子と家内と共にまた都会で暮らすことを決意する。
(パソコンの話なんて無いじゃん・・・)

■生涯初のNECマシン(NEC ValueStarNX)



ガソリンスタンドのおっさんから譲りうけたPC

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